物事が、悪いほうへと流れていく。
 そう自分の中の何かが囁きかけてくるのを止めることが出来ず、クイーンは多大に苛付きながら、何杯めかの酒を杯から喉に流し込んだ。

 つい先刻、ビュッデヒュッケ城に戻ってきたその足で、クイーンは酒場に駆け込み、尋常でないその様子を訝る女主人からほとんど奪い取るようにして酒瓶を受け取り、酒を呷り続けていた。
 クイーンにそうさせているのは、ルビークからの帰路での出来事だった。
 アムル平原に通じる山道を下る途中で、小物のモンスターとちょっとした戦闘になったときがあった。常ならば、その程度で動じる筈のないゲドなのだが、その時の様子は違っていた。動きに切れがなく、剣を持つ背中に億劫さが漂っていたのだ。
 そのことに気付いていたのは、付き合いの長いジョーカーとクイーンだけだった。二人はちらちらと大将の様子を窺いつつ、襲い掛かってくるモンスターの相手をしていた。
 その時だった。
 ゲドの背後にいつのまにか回りこんだ一匹のモンスターが、今にもそのとがった爪をゲドの背に突きたてようとしていたのだ。信じがたい事に、ゲドはまだ、その事に気付いていなかった。
 ジョーカーよりも一瞬早くそれに気付いたクイーンは、咄嗟に目前の敵を切り捨て、ゲドの元に駆け込んだ。
 モンスターの爪が今にもゲドを切り裂こうとした刹那、間一髪で突き出したクイーンの剣がその攻撃を遮った。
 やっと背後の敵に気付き、振り返ったゲドの隻眼と眼を合わせたクイーンは、男の眼差しの中に今まで見たことのない感情の揺らぎがあるのを見つけてしまった。
 ……そして、クイーンがゲドに気を取られている隙に、再度腕を振りかぶったモンスターの爪は、クイーンの肩の辺りを深く傷つけたのだった。

 モンスターに抉られた肩の傷はかなり深かったが、出血も少量で済み、見た目もさほどの重傷とは映らなかった。
 クイーンはそれを幸いと、心配する周囲に無理に元気を装い、そのまま城に戻ってきたのである。
 とりあえずの処置をした傷は、いま酒を飲んだ事によってより痛みを増し始めていたが、クイーンが苛立っているのはそのせいではなかった。
 あの戦闘のときに、一瞬だけ見せた、ゲドの表情が眼に焼きついていて離れないのだ。
 今まで、クイーンが一度も見たことのない眼をしていた。
 それが、どうにも焦りと苛立ちを呼び起こすのである。
「なんだっていうのよ、まったく……」
 苛々とクイーンは呟き、杯を握りしめた。

 ゲドは執務室で、独り窓の側に佇んでいる。
 城に着いた時点で完全に日は落ち、今では星の瞬く夜空に細い三日月が浮かんでいた。
 ゲドは夜空に顔を向け、沈思していたが、ふと口を開き、低く呟いた。
「……ジョーカーか。何の用だ」
 薄暗い室内に、いつのまにか人影が増えていた。扉近くからゲドの方へと歩み寄り、ジョーカーは気遣わしげにゲドを眺めた。
「あまり本調子ではないようじゃの」
「……」
 無言で視線を返してくるゲドに怯むことなく、ジョーカーは小さく吐息した。
「クイーンがあんたのことを心配しとる、大将」
「……」
 ジョーカーはちらとゲドの顔を見た。
「真の紋章が外れた大将が、どうなってしまうのか、とかな」
 ルビークでのハルモニアの動向を知ったゲド達はセナイ山に向かい、そこで待っていた敵に、ゲドは真の紋章を奪われた。
 紋章により不老の力を与えられ、長い生を送ってきたゲドが、その力を失ったことでどうなってしまうのかは、誰にも分からなかった。
 ただ分かっていることは、生の先に再び死が待ち伏せているようになった、ということだ。
 クイーンはそのゲドの変化を敏く嗅ぎ取っている。そして戦闘中、気の緩みを見せたゲドをモンスターから庇って、肩に負傷したのだった。
 ジョーカーは持参していた薬瓶をゲドに向かって差し出した。
「大将が持って行くのが一番いいじゃろ」
 ジョーカーの手中に納まる小さな瓶を見つめ、ゲドは眉をひそめた。
「……まさか」
「そのまさかじゃよ。強がってろくに手当てもせなんだが、あれは相当深手だった筈じゃ。しかも今、酒場に入り浸っているようじゃが、それでは余計に傷が疼いているじゃろうな」
 表情を厳しくして、ゲドはジョーカーから瓶を受け取った。
「中身は塗り薬になっとる。城の医者に分けてもらったものだから、効きは悪くない筈じゃよ」
 ジョーカーは行ってこい、という意を込めて、ゲドの肩を扉のほうへと押し出した。
「……すまん、ジョーカー」
「礼を言われるようなことは何もしとらんよ。いいから、早く行ってやるんじゃな」
「ああ」
 足早に扉に近づいたゲドは、部屋から出ようとした時、ジョーカーの方を振り返った。
「ジョーカー」
「何じゃ、大将」
「……いや、何でもない」
 口を開きかけたゲドは、言葉を途中で飲み込み、ジョーカーから眼を逸らして、そのまま部屋を出て行った。
 ジョーカーはそれを見送り、微かに苦笑を浮かべた。
「胸に溜まったものは、好いてくれる女に受け止めてもらうのが一番いいんじゃよ、ゲド」
 自分より遥かに長い時を過ごした男に、年輩者めいた台詞を呟き、その可笑しさに、ジョーカーはまた苦笑した。そして肩をすくめ、自分も部屋を出ていったのだった。

 酒が過ぎたらしい。
 身体の血流が良くなったせいで、肩の疼きが一層酷くなってきていた。
 クイーンは渋い顔のまま、それでも杯を手放さずに、喉を焼く酒を口に含んだ。
 と、背後から伸びてきた手が見えたかと思うと、次の瞬間にはクイーンの握っていた杯は取り上げられていた。
「返しとくれよ、ゲド」
 クイーンは憮然と肩越しに振り返り、既に馴染んだ気配の人物に向かって文句を言った。
 クイーンに劣らず憮然とした表情のゲドが、すぐ真後ろに立ち、クイーンの杯を弄んでいた。
「それくらいで止めておけ」
「いいだろ、別に。今は飲みたい気分なんだよ」
 クイーンは頑固に言い張り、腕を伸ばしてゲドから杯を取り返そうとした。しかしゲドはその手を避けて、自分で杯の中身を飲み干してしまった。
 そして、クイーンの二の腕を軽く取った。…負傷していないほうの腕だ。
「こい、クイーン」
「ちょっと……」
 有無を言わさぬその物言いに、苛々とクイーンが反発しようとした時、ゲドは吐息交じりにもう一度促した。
「……いいから、来い」
 頼む、と呟くように言われ、クイーンはそれ以上の反抗を封じられてしまった。
 渋々と椅子から立ち上がり、クイーンの腕から手を離さぬゲドに連れられて、クイーンは酒場を後にしたのだった。



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「風紋」

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